菊芋の世界:救われる命 ブログ

健康の要:菊芋。日本の要:惟神のみち、すめらみこと

かんながら:惟神

日本人の住む、日本列島の歴史は長い。
子供の頃から習った「日本の歴史」では、
本当の日本の歴史は分からなかったし、興味も湧かなかった。
勉強の範疇から抜け出せなかったからです。
日本には日本人が住み、中国には中国人が、ドイツには
ドイツ人が住んでいると、ずーっと思っていました。
しかし、それは間違いでした、間違いだと気が付てしまいました。
世界では大震災が起きた場合、被災地では、アメリカなどの大国でも
「略奪」が平気で起こります。
黒人暴動の際も商店は襲われ、無法化し子供までもが略奪しています。
先を争って、物色し、争ってでも略奪する様子がTVに映し出されます。
日本人は、これを見て、なんて酷い社会なのかと、目を疑うのではない
でしょうか。日本の災害地、地震や津波で一帯が大混乱に陥りますが、
略奪が流行った験しがありません。生活物資の奪い合いも殆どありません。
被災者同士で争うこともありません。
奪い合うよりも分かち合っています。
海外では「不思議な光景」として報道されます。
どうして日本人は、いつも、このような行動をとれるのでしょうか。
私は、日本の歴史、先祖の行い、思想、生活習慣に原因があると考えました。
日本人は「島国根性」でこせこせしていて、みっともないとか、資源が無く
貧乏な国なので、工業国にならなければ、生きていけない国と教わりました。
そして、一国平和主義とか、揶揄しては、卑屈な自虐的国家観が大勢と占め
ていました。一部は当たっていても、大きな間違いをしていて、情けなく思
います。こんな国家観を持つ原因は、唯一つ、第二次世界大戦での敗戦です。
この敗戦で、日本人は「誇り」を失ってしまいました。失うような、失わせ
るような策略が在ったのです。
その事に気づくと、一気に自虐的な日本は「崩壊」してしまいました。
素晴らしい日本が、蘇ったのです。
その大きな原因の一つは「天皇」の存在です。「すめらみこと」は唯一日本
の偉大なる「宝」と言って憚りません。
私は日本の右翼、国粋主義とかに関係を持つものではない「只の日本人」です。
日本に日本人が居る、と言う事が当たり前だと言うことに疑問を持てば、他国
の事情と比較したり、世界の歴史を、しっかりした観点で学べば、奇跡の日本
であると理解できるでしょう。
私の学校時代は重要な政変などの年号を暗記し、庶民の生活や、社会の成り立
ち、環境や文化などには、通りすがりのような感覚で、淡白な関心しか持てま
せんでした。恥ずかしながら、思慮分別のない若さでした。
孝徳天皇の時、大化の改新が起きましたが、この天皇の存在は、日本人にとっ
て、とても大きい存在です。
日本神道の基本が、ここから始まったのではないでしょうか。
出雲大社柴野教会様の解説をかい摘んで言わせて貰えば。
「惟神・かんながら」または漢字で「随神」「神惟」ともいいますが、
この言葉は「日本書紀」に登場する言葉で、先に述べた第三十六代孝徳天皇
の詔(みことのり)に述べられました。
難しい文言で書かれ、述べられておりますが、要約、致しますと、
「天つ神の御意思によって、皇孫にこの国を治めさせると、おっしゃられた」
という文言が書かれております。
「惟神」の意味は大きく捉える必要があり、「神の道にしたがうこと」「自然
と神の道があること」に加えて、「神意のまま行うこと」などと解釈されます。
昔から神道家の中では、よく用いられてきた言葉です。
私は「神の導きのままに行う」と解釈させて戴いて居ります。
そして、ご利益信仰を望む庶民は、神に守られたい、守ってもらいたいと熱心
に、神社、仏閣に真心こめて祈っていたのです。
最近話題になった「教育勅語」の精神も日本人にとって、馴染みの良い教えで
あると私は感じており、どこが悪いのか、と不思議でなりませんし、反対する
人たちは、本当に日本の歴史を知って、仰っているのか疑問です。
どの宗教も教義があり、人の道を説き、平和を願う素晴らしいものだと思いま
すが、神道には「教義が無い」のですから、凄いです。
大震災の中で、争いを避け、譲り合いながら、ひたすら困難に耐え、笑顔を絶
やさずに、歯を食いしばって居る姿は、やはり連綿と続く、言わずと知れた、
「かんながらのみち」を実践する国民のくになのです。、
万世一系の天皇、すめらみこと(皇尊)とおお御宝(国民)の幸和う国、日本
ならでは!と思わざるを得ないのです。
                  ・・・ありがとうございます。・・・
・・・